最上階の開かれたガラス張りの窓から、京都の街を一望しながらの演奏はとても気持ちが良かったです。
お天気のいいお昼の時間、遠くの山まで見通せて、目が良くなる気がしました。
ヴァイオリン独奏、無伴奏は、何よりも好きな時間ではないかと最近思うようになりました。
正直なところ、昔は無伴奏が怖くて不安で、人とのアンサンブルの楽しみもないのが寂しくて、あまり好きになれませんでした。(実際バッハの無伴奏の暗譜が飛んだ苦い想い出もあり)
何故かしら年齢なのか、機会を頂くようになったからなのか、少しずつ好きになって来て、今や自分にとって大切な音楽の時間の一つとなっています。(と言いつつやっぱ人と演奏する方が楽しいけどね。うん。)
今日はある曲を弾きながら、ある人を思い出していました。人とのアンサンブルがない分、思いの巡り先も自由なのかも知れません。
これまでにお会いした方々の中で、本当に天才だと思える方は彼だけですが、その彼を思い出していました。
私が弾いた曲を一度聴いただけで憶えて弾いてしまったこと、譜面も見ずにただ憶えて弾いたことは、一生忘れない衝撃的な思い出です。
(私の演奏を聴いて憶えたが為に、弾き方も歌い方も私の癖そのままだったのがすごく可愛かった。テンポ感もほんとはもっと速いんだけど、私がこんな曲だよとゆっくりめに弾いてしまったが為に…。ごめんよ。)
会いたいなぁ。と遠くの空を見上げながら思いました。(いつかのツイッターでも呟いたけれど、私の大切な人達は皆海外に行ってしまわれるのです。)
以前お仕事でご一緒したお姉さんが
「歳をとることは怖いことをたくさん知ることだよ」と仰っていました。
その通りだと思います。
楽しいことやステキなことはたくさんあって、ご飯を毎日食べて寝られる毎に「幸せだー!!」と思えて生きているのですが(沸点低!)、悲しいことや怖いこと、辛いことの方がどうしても深く刺さってしまったり、不幸(もちろん自分の身に起こるそれ)の方が、何故か魅力的で目についてしまうという怖い人間の習性もあり、私のモットー「とにかく笑門来福。辛い時ほど笑ってりゃ幸せ。」に従えない時があります。(たまにだけどね。基本はおバカだから気付かず笑っている。鈍感で調子乗り、繊細に行動できない私に付き合ってくれる周りの方々に本当に感謝しかない。)
信仰心のある知人友人たちは、「不幸の魅力を断ち切るのは難しい。無信仰でよく頑張ってるよ。」と、よく言っていました。
そういう時、おそらく私は自分のヴァイオリンに救われているのではないか、と気付きました。
それを間近に真に感じるのが無伴奏です。
共演者との間に生まれる幸福感ではなく、自分の素のままの音から生み出される何かに救われているのかも知れません。
美容と似てるかもな…。(ハッ!一気に安っぽくなる!これはナシだな。ナシナシ!)
誰かの為に演奏できるのが一人前なのだとすると、これじゃあ私はまだまだです。
(以前、ソロライブをご覧くださってた音楽業界の先輩は、終了後「お客様から元気を頂きました」と言う私に、「元気を貰ってるようじゃまだまだ。あげられるようになってね。」と仰られましたが、その通り。私はお客様や共演者さんから常に貰ってばかりなのだ。)
信仰心を知りたくて、狂気を感じると言われるほどバッハを紐解いたり、宗教学の授業レポートでウザいほどメール質問した学生時代の私の思いは、未だに解明されない謎のまま。
でも少しだけ、神=イエス=ジーザスが、=楽器であり=音楽なのかも、と私的な物に置き換えられるようになってきた…のか?と思う最近の無伴奏の日々でした。
またきっと、歳を重ねる毎に感じ方が変わっていくんだろうなぁ。
変化が楽しみです。
というわけで、無伴奏でのお仕事大歓迎でございます。引き続きどうぞよろしくお願い致します。(ハッ!また営業になってしまうではないか!でも本心。無伴奏で弾かせておくれ。)
ps
[日本のうた]では無伴奏も入れようかなと思ったりしている。。。あ、思ってるだけかも知れないよ。