cafe bourréeさんにて、ピアノ・ヴァイオリン・ヴィオラトリオコンサートでした。
まだまだ学生抜けしない頃にたくさんお世話になった長谷川みささんは、やっぱり本当に素敵で超絶のピアニスト様でした。
昔から変わらない、クラシックピアニストのイメージを覆す柔軟性と透き通る音とダイナミックな世界観。
本番の音は更に聴きこんでしまう音色で、メロディを演奏しながらこんなに音を聴きこんでしまうピアニストは、やっぱり今も昔もこの方だけが持つ魅力なのだなぁと実感しました。(というのを言い訳に、みささんに罪をなすりつけたのは私。「みささんの音に聞き惚れてしまって入りそこねたんですよ、私のせいじゃないもん」ただのミス。)
どの会場でもどんな楽器でもどんな状況でも、なんでも来いという姿勢は私が今も「そんな人でいよう」と思える発端になっています。
待谷翠ちゃんはいつの間にかヴィオリストになっていて(昔はヴァイオリン科で一緒に勉強していました。)そしてとても上手くなっていて(ものすごく上からみたいに聞こえるけど本当のこと)でも相変わらず言いたいことを思いっきり言い合える関係は健在で、とにかくなんだかすごく楽しいコンサートでした。
急な告知にも関わらず、お越し下さった方々には本当にありがとうございました。
また、間に合わないけど…と遅れてお顔を見せてくださった方もいらっしゃり、とっても嬉しかったです。
ありがとうございます。
会場のcafe bourréeさんにはレコードが飾ってありましたが、その中にわたしがCD版でよく聴いていたもののレコードがありました。
昔話の如く「レコードが擦り切れるほど聴いた。」というお話をお聞きしても、その経験が無く(CDデッキが壊れたことは何度もあるけど)今では簡単に手に入れられて簡単に再生できてしまう時代になりました。
便利であることは豊かな暮らしをする上で必要な進化なのだとは思いつつ、便利になりすぎるが故に失われる風情が少し勿体無く感じてしまいます。
豊かな暮らしってなんでしょうと思ったりもします。
少し時間と手間がかかっても、巻き戻したり、この辺かしらと再生してみたり、そういう行為や時間も時には心を豊かにしてくれたりするのではないかしらと、珍しくそして文字通り、物思いに耽る夜でした。(完全に昭和フェチ昔好きの戯言ですな。)(だって恩恵にも預かっているのだから。新し物好きの矛盾。)